なにがなんでも精神で突き進む家具道
◎家具道のはじまり
私は千葉県千葉市の高級外車洗車業やハウスクリー二ングを営む家に生まれ、高校を卒業すると父の会社に就職、将来の二代目社長として働く日々を過ごしていました。
30歳を目前にしたころ、「このままの人生で良いのか。」と迷いを感じ「後継者ではなく、創業者になって社会に通用する仕事がしたい。」と28歳の春、親の会社を退社して自分で道を切り開く選択をしました。
その頃インテリアを見るのが好きでかっこいい家具が自分の手で作れたらいいな。という思いがあり東京品川職業訓練校の木工技術科に受験をし入学をしました。
◎修業の始まり
訓練校で一年間基礎を学んだあと(株)アイダ(家具蔵)に入社し椅子づくりを一から学びました。
同期入社は6人。建築やデザインを勉強してきたつわものばかり、常に劣等感を感じながらも黙々と修業の日々を過ごしました。
当時は常に心の中には家業の2代目を蹴った以上、家具職人に向こうが向くまいが逃げ出すことはせず、なにがなんでもでもこの道で一人前になる。という気持ちしかなかったのです。
当時の主な仕事は、椅子のパーツを組み立て仕上げるという仕事。忙しく朝早くから時には夜中まで懸命に働きました。
いずれ将来は家具職人として独立をしたいと考えていたので2年半後、当時の社長にいろいろな家具をつくる修業がしたいと退職相談すると良い仕事をしているという家具産地 静岡の家具メーカーの名刺を私に2枚(二社)渡してくれました。
◎家具の産地静岡市へ弟子入り
静岡に向かい いろいろな注文家具の会社を調べて尋ねてみるがなかなか思うようなところが見つからなかった。そして最後に もらった名刺の会社(森下木工所)にゆくと年齢が遅すぎるという理由で不採用だった。当時は住み込みで学業を卒業したての職人が多く、「君の年齢30過ぎからだと人の何倍も努力をしないと追いつけないよ」。社長に言われてしまったのです。
それでも、私の熱意を感じてくれた森下木工所の社長が「伝統工芸士(家具指物師)の青野熊吉大親方のところへ行ってごらん。」と紹介をしてくれました。
◎人生を変えた出会い
そうして青野熊吉師匠の一番弟子の平尾親方のもとで弟子入りが決まり静岡での修業が始まりました。青野熊吉師匠は、とにかく仕事に厳しい人でした。
周りの人には、よく大谷君づづいてるね。と言われましたが師匠は当時有名な歌舞伎役者の鏡台や回転鏡などの仕事をしていたのでまじかで指物師の技術を見ることができ、とても有意義な時間でしたので仕事にとても厳しい親方でしたがやめようと思ったことは一度もありませんでした。
そうして小さな工房で二人の親方の仕事をまじかに見ながら基礎から学んでゆきました。
しかし生活はとても苦しいものでした。家賃や光熱費諸々支払うと食費は月に1万円。1個100円のおにぎりは贅沢品、100円の乾麺の蕎麦で3食しのぐこともありました。そしてみるみる痩せてゆきました。それでも生活のための他のアルバイトはせず、いいものを作ろうと仕事が終わった夜、一人工房に残り自分の作品を作りつづけました。
ある時、いつものように夜工房にひとり残りラジオを聴きながら作品をつくっていた時のことです。
突然、師匠が工房に来てこう言いました。
「お客さんに失礼だ。ラジオを聴きながらの仕事は、作品にそのまま表れるぞ。」と
その時、師匠の言葉が胸に刺さりました。
それ以来、作り手の心は必ず形に現れることを肝に銘じて仕事をしています。
◎新たな挑戦へ
修業中でしたがその頃、静岡市では若手伝統工芸職人のグループ「駿河クリエイティブ」という組合に参加させて頂き、異業種の若手工芸士たちと地元の老舗百貨店や東京での展示会に出品させていただく機会をもらいました。
夜コツコツと作りためた作品をお客様に販売できるチャンスでした。
自分の休日には、アテンドに立ち、自分の作品をお客様に説明したり意見を頂いたりと使い手の人と直接お話ししながら、それはいろいろなアイデアを頂き新商品開発の機会となったのです。
◎念願かなっていざ独立へ
家具の道に進み10年後2006年に静岡市に工房を借り念願の独立をはたしました。
家具作りで使う木工機械の購入費用350万円を銀行に借り あとへは引けない覚悟をもって大谷家具製作所という看板を掲げ大海原へ出てゆく気持ちでした。
独立する際に師匠に言われたことは
「これからの時代は、問屋制度はなくなってゆくだろう。自分の力で自分の作った家具を売ってゆけ。」
それを肝に銘じ独立しました。
まずは、不二工芸会という組合に入り組合の展示会に参加したり会場を借り個展を開催するなど自分を知ってもらうために出来る限りのことをしました。
そんなある時、静岡の老舗百貨店のバイヤーさんに「大谷さん個展やってみないか?」と声をかけて頂きそこから有り難いことに6年間毎年個展を開催させていただきたくさんのお客さんとのご縁を頂きました。
そこで学んだのは「使う人の立場に立ったモノづくり」です。
使い手と共に家具を生み出すということは大変なことも多いけれども、完成した家具を見るお客様の笑顔が励みになりとてもやりがいを感じました。
そうしてたくさんのお客様からチャンスを頂き経験をさせてもらうなかで生まれてきたものがありました。
◎いつかは自分の故郷千葉県で勝負がしたい。
12年間お世話になった静岡市から2011年秋千葉(長南町)の工房を購入することができて移転をしました。お世話になった師匠には、「関東で勝負してこい」。と背中を押してもらいました。
高度成長期の家具業の時代を長年見てきた師匠は、 「産業の命は長いが企業の命は短い。金儲けにはいったら一時は良くともいつかは淘汰される。忘れちゃいけないのは、何があっても真面目に作ることだ。」と言われてきました。
その師匠の言葉は今でも心に残っています。
◎お客様との対話の中から生まれる家具。
「家具は暮らしの中の道具です。」
目の前のお客様にとってどんな家具が良いのか使い手と共に一生懸命考えます。
そして大切なことは3つ。
◎修理しながらも長く使い続けられる家具。
◎用の美=本物は年月が経っても美しい佇まいである。
◎良い材料(素材)+良い仕事(技術)